俺に踏まれた街 俺に住まれた家 ほか

平民新聞 - 携帯写真の名誉回復に向けて
それが何であれ、「羅列」は楽しい。そこに提示されたものに意味を見出すのも楽しい行為だが、目の前に立ち現れた「羅列」をただただ見る、というのもなかなかに楽しい。知らない人が踏んだ街や踏まれた街、集めたモノや捨てたモノ、出会った者や別れた者。その他。
以下に貼ったものは、虚無的にカメラ(ではなく、携帯電話)を構えて捉えたもの、というよりは、ある程度意図的に、この日記や以前の日記、またはmixiなどで誰かに「あとで何らかの説明をする」ために撮ったものがほとんどで、案外「自分でもなぜカメラ(ではなく、携帯電話)を構えたのか、よく覚えていない」というものが(なくはないが)少ないのは少々残念だった。きっとそれを発見する喜びが、この作業にはあると思うので。
そういった写真が少ないのは、私が「携帯電話を使っている人間の様は、どうしてもばかに見える」という思いにとらわれているからで、みだりに携帯電話を使っている様を他人に見られたくない、と感じているのが原因であると思われる。それは写真撮影に限らず、通常の「電話をかける」行為にしても同様で、なんとなれば私は「携帯電話の普及する前の世界」を知っている昭和の人間であり、「手のひらに収まるサイズの棒状のものを、耳にあてたり、目の前に突き出したりする」のが自然な行為ではなかった時代をよく知っているからである。
今でこそそれらの行為はひとつの風景だが、それでもふとした拍子に「この人は、耳元に棒状のものを押しあてて、何をしているのだ」と思うことがある。その「耳元に棒状のものを押しあてている人」は、そうしながら何をやっているのかというと、一方的に喋っているのだ。耳元に棒状のものを押しあてて、一方的に喋っている人。その人を見て「ああ、電話か」と理解できるのは、それが携帯電話をかける者らがとる所作であることを私やあなたが知っているからで、知らずにそれを見たら、この所作に人は相当の恐怖を感じるはずだ。電車などでの「携帯電話の使用はおやめ下さい」という決まり事は、ペースメーカーや一般的なマナーといった問題以上に、「何か、恐いから」という問題が大きいのではないか、と私は思っている。電車の中で奇異なふるまいで独り言を喋るのは、頭のスウィートな方々だけで十分だ。
もうひとつ象徴的なことがあった。数年前、都内である事件が発生し、その日のテレビはどのチャンネルも番組の予定を変更して、その事件について報じていた。慌ただしい雰囲気に包まれる中、テレビカメラの前で報道特派員が現場の様子を物々しく伝える。そうすると決まってカメラの周りにはあれが集まってくるのだ。野次馬が。野次馬は現場の悲壮な雰囲気を気にする様子もなく、ひたすら朗らかな笑顔をカメラに向ける。カメラの向こうにいるはずの友人の名前を呼び、ピースサインを送るのだ。これらの行為はおそらくテレビが生まれて間もなく発生したものだと思うが、この地デジの時代に於いてもそれは相変わらずだ。変わらないのだが、ただひとつ、昔とは様子の違う風景がそこにはあった。
「耳に棒状のものを押しあてて、空いたほうの手でピースサインを出している人」
あれを見て以来、私はみだりに人の多いところで携帯電話を使って通話したり、携帯電話で写真撮影をするところを人に見られないようにしている。近くにテレビカメラがある場合はなおさらだ。
長くなりました。以下、写真。